心の痛覚を蘇らせるために七転八倒

優しい心を持って、人間らしく生きたい

無謀

聞こえるはずのない音が聞こえる

耳の奥に張り付いて、その音を響かせている

ああ、ダメだ

あの振動が、スピードが、身体に残っている

"魅せられた"

憧憬は、簡単には離れてなんかくれない

頭の中をそれだけが埋め尽くして、どうしようもないくらい強い光を浴びた後、焦げる。

願望、羨望、希望、野望、

「もし、私が"なれた"なら……」

光がないと生きていけないくらいに焦がされたのだろう。悲しいほどに鮮明に焼きついたその"夢"が、一般的な幸せを崩壊させることも厭わないと私に決断させてしまう。あんなに強い光を魅せられてしまったら、もう忘れられないじゃないか、

こんなのは、不運な事故だ。

 

『かっこいい』

 

私にとって、呪いの言葉

口に出してはいけない、不幸な一言。

 

おねがい、きらきらしないで

「もう大人でしょう」

そんな言葉がたくさん降ってくる

卒業証書片手にピースしていた写真は、もう"学生時代"の過去で、綺麗な思い出だ

なんとか保険とか、税金とか、恋人とか、

面倒なものがたくさん増えて、時間が削られていって、どんどん忘れていくんだろな

卒業を終えて、まだ入社式を終えてない私はまだ"コドモ"でいたいんだ

 

なあ、まだ遊ぼうぜ、

 

「もう大人だろ?」なんて、

そんな寂しいこと、言うなよ。なぁ。

社会関係的サムシング

「とっても優しい人ね」

他者からそう見えるように最善の努力することを、私は決して悪だとは思いません。それは自己満足に終わるだけではなく、他者もそれを望んでいるからだと考えています。いくら腹が立とうとも、醜い感情が渦巻いていても、たとえ殺人を犯しても、表に出さなければ誰も何も気づかず、全員が笑っていられます。知らなくて良いこと、というのはこの世にいくらでも存在していて、私がない心をあるように振る舞うのも、本当は誰も知らなくて良いことであり、周りもそれを望んでいます。もし私がない心を明らかにすれば周囲の人間は私を「自身に利益をもたらさない害悪だ」と無意識のうちに追放するでしょう。「優しい友人」というステータスを持った人間こそが自身の幸福の増加に貢献すると確信して付き合ってくれているのですから。ああ、勘違いしないでください。これは私の周囲の人間がとても冷酷で、私が可哀想な被害者という場面ではなく、集団的社会が理性的で正しい判断を下した故に起こる当然のシチュエーションだと考えてください。「面倒くさい友人は無視」が現代のいたる社会での献身的掟なのですから、仕方がありません。

 

なにも私は、損得感情抜きでのコミュニティを諦めているわけではありませんが、理想とはしていません。

友情とは、「共感や信頼の情を抱き合って互いを肯定し合う人間関係、もしくはそういった感情のこと。 友達同士の間に生まれる情愛。 しかし、それはすべての友達にあるものではなく、自己犠牲ができるほどの友達関係の中に存在する。」/wikiより。

 

共感、信頼、とは。

肯定し合う、とは。

情愛、とは。

 

仮に、友情=信頼とするならば、友人同士における「信頼している」とは一体どこで何の役に立つのでしょうか?仕事において信頼を失えば確かにデメリットの方が大きいでしょう。では、友達関係における「信頼」のメリットとは何なのでしょうか。

 

別に、信頼などなくとも良いのでは?

 

まあ、流石にここまでは私も言い切りません。

…言わないだけですが。

今も昔もコミュニティは生きていくために大切だというのが無意識下で明確化してきています。snsなんていう些細なものや、規格を地球規模にして、そこに「信頼」なんてものが無くなって起こるのが"争い"なんでしょう。

なにより争いの起因は、より自身の幸福の最大化を図ろうとする人間の欲望です。

冒頭で述べた、悲しくも献身的な社会の掟は「信頼」「情愛」なんてものは微塵も持ち合わせていません。

 

だからなんだというわけでもありません。

 

兄妹

「本気なら、連れてってやるよ」

彼にとっては何気ない冗談だったかもしれないけれど、下から見上げた彼の姿に、光が射した気がした

私の憧れは、昔からずっと、君だったのだ

彼の見る世界を見てみたかった、私も彼の見る景色に居たかった

彼と一緒に笑いたかった、笑ってほしかった

これが、本当の私の夢だった

 

同じ世界に、やっと立てた

それも、彼が手を引いてくれた

「ようこそ、こっちの世界へ」

 

いつだって君は、私の憧憬の的だ

もう、諦めてすらいたのに、

 

「お兄ちゃん、」

 

いつも私が憧れるようなきらきらしたものを魅せてくれるのは、彼だけだった

頭に乗せられた無骨ながらも、まだ若い温かな手が、

私を照らす希望の光だった。

おはようを消したい

睡眠時間の少ない私は、いつでも目の下に大きな隈をこさえていて、それを病的な何かだと思い触れない人や、気に留めない人、気味が悪いと影で噂したりする人もいます。

別に精神的な病を患っている気は毛頭ありませんが、私の悪い癖だとだけ言っておきましょう。

自分にとって都合の悪いことが起こると分かっている時、明日が怖くなりませんか。

夜が来て、眠ったら日が昇って、今日になってしまう。眠ってしまえば朝になるまで、あっという間です。誰もが睡眠に対して6、7時間、ただじっとしていたなんていう感覚はないでしょう。今日という日を少しでも伸ばして明日を遠ざけようとする私なりの抵抗が、「眠らない」という行動でした。

しかし、初めから分かっていました。いくら今日を伸ばしたところで日は昇り、今日は私を照らし、古い今日を消化していくことを。毎日カーテンの隙間から覗く朝日と、澄んだ空が私をどうしようもなく現実に引き戻すのです。そこに「悲しい」なんて感情はありません。私がいつも感じていたのは、自分に対する呆れでした。睡眠時間を削って、叶うことがない幻想を理解していながらも追い求め、わざわざ自身の行動効率を落とすなんて微塵も利にもならないことをなぜ繰り返しているんだと。叱責とも言えるでしょうか。

きっと私は心がないのではなく、弱いのでしょう。(だからこそ、私も見つけられない場所に置いてくることで守っていたのだけれども)

これを私なりの心の芽生えだとするならば、どう大切にしていけば良いのか私にはわかりません。何処かへ追いやることでしか守る術を知らない私は、これからも睡眠時間を削りながら明日への恐怖に怯え続けなければならないのでしょうか。今は昔ほど酷くはないものの、夜のまま永遠に朝日が昇らない幻想を今でもまだ、ひとりの暗い闇に描いたままです。

ごめんねベイビー

「心ってどこにあるの?」

澄んだ目を輝かせて盛る好奇心の怪物は随分とファンタジーな質問を私に投げかけました。

ベランダで煙草を吸っていた私の元へわざわざやって来たところを察するに、周囲の大人たちは怪物が満足するような回答を与えてはくれなかったのでしょう。その真剣な様子からその疑問が大きく膨れ上がってしまっていることを悟った私は先輩から貰って以来愛煙しているショートピースを雑に灰皿へ押し付け、「逆にどこにあると思う?」と今までの回答を踏まえた上での意見を聞いてみることにしました。すると、少し悩んだような素振りを見せながら、やがて「ここ!」と自身の胸板の中心辺りを指したようでした。その様子を可愛らしいなあと眺めていると「違うの?」と不安げな声と行き場のない手をオロオロ漂わせる姿がなんだか面白くて思わず笑ってしまいました。不満そうにこちらの言葉を待つ相手に謝りながら、さらに意地悪く「それは心臓の横?」と尋ねてみると「え!?」と声を上げ、あからさまに困ったような顔をして動揺し始め、「なんでなんで!!?心臓なの??」と切羽詰まったような声で正しい回答を急かしてくる無邪気な子どもの小さな頭を撫でながら望まれているようなものではない私なりの答えを何とか正しく変換しようと思案します。

心臓にあるのは血液循環の最重要臓器だけで、心なんて幻想は存在しない。

かのアリストテレスは、好意を寄せる相手に対して胸がドキドキするのだから心臓と唱え、医術の祖ヒポクラテスは脳にあると考えました。他にも心は身体とは別に存在する考えや、心の場所を問うこと自体が間違いだという考えもあります。外側から人間の振る舞いを見たとき,心があるように見えるだけであって,実際には物理的実体である脳だけがあり、心の本質的な感情を作り出すのは脳なのですから「心は頭部(脳)にあるのではないか」というのが私の回答です。

あまりにも夢のない自身の回答に呆れながらも、改めて子どもの目を見据えて言葉を紡ごうとすると、澄んだ瞳の奥に広がる宇宙と目が合い、何故か私は無意識のうちに口から「さあ…」とつまらない一言を溢しました。直ぐに、私の少し下あたりから「えぇーー!!!??なんで教えてくれないの!?」と非難の叫びを挙げる子どもの声で意識を自身の元へ取り戻し、暫く呆気に取られて身動きを取れないでいた私でしたが、下から腕を引っ張られて揺さぶられる感覚のおかげでひとつ、結論を出すことが出来ました。

知らぬが仏。わざわざ夢を壊してやる必要もないのだと、子どもの世界を優しく守るどこかの銀河に力強く抑制され、そう言われたような気がしました。

無垢な子どもに嘘をついた私は未だに収まる気配のない怪物を室内に追いやり、そんな言い訳を浮かべながらも誤魔化すように缶の中からまた一本、取り出しました。

Over the rainbow

   これは、虹の根元など存在しないのだと、幼児向けの理科の本で知った頃の話です。

両親は働き詰めで、私は祖母と暮らしていました。しかし、身体の弱い祖母は私にご飯を与えることが精一杯で、あとはずっと寝込んでいるのみです。暫くすると起き上がることも出来なくなり、私は祖母の財布と僅かな仕送りで飯を何とか食らっている状態でした。両親に会うことは殆どありませんでしたが、祖母の容態が悪化するとようやくその姿を現しました。私の肉親の筈なのに、他人のようにしか感じられず、目も合わせることが出来ません。私にはお母さん、お父さんと呼び親しむような温かな記憶が少なすぎたのかもしれません。ベッドに横たわる祖母の方が私にはよっぽど親鳥でした。

その後は祖母は入院し、私と両親は共に暮らすことになりました。祖母は治療を繰り返しましたが、次第に息を引き取りました。私には母親を失ったと同義でしたが、やせ細った白い顔を見てああ、死んでしまったんだな、とまるで他人事のように思いました。これを現実として受け入れてしまえば、私の心が壊れてしまうだろう。けれどそれは紛れもない現実でした。母は仕事を辞め、父は私と会話すらしようともしません。手元に残ったのは他人同然の両親と山のような紙幣だけで、だからそれを現実として認めるために幼い私は心を大切にしまっておくことを選びました。それが二度と手元に戻らない代わり、決して壊れることがないように。

なので、それを理解できないだろうと踏んで深く警戒せずに母親の口から出た「産まなきゃ良かったわ」なんて父親対して微笑気味に述べた私への感想も、私は特に傷ついた覚えはありません。私の心があった場所に存在するのは「虚無」のみでした。教科書で教えられなくたってわかっていました。初めから望まなければいいだけの話です。共に過ごした時間などなんの保障にもならず形骸的な家族形式などなんの裏付けにもならない。この世に溢れる意味のない物事に惑わされ、きっと自分は愛されるのだと期待するせいで、不必要な落胆とそれに伴う痛みを覚えるのだと。温情はこの時の私にとって最も無用な感情でした。

静かに慣れた孤独が私の思考を優しく導き、決して家族を憎むこともなく、ただただそれをまっすぐな目で自分がこれ以上歪まずに生きる術を見定める子どもでした。

家族は私のことが嫌いだったわけではないはずです。本当に幼い頃には誕生日を祝われてケーキやクマのぬいぐるみを貰ったこともありました。多分彼らも、時とともに飽きてしまっただけなのでしょう。

 

私が生きるにはお金が絶対的に必要であり、形骸的な愛情を選ぶことこそが最善であったのです。親が子を愛することを文献でしか知らなかったので、必然的な選択ともいえました。

それが私のせいでないと言われたこともありました。そうかもしれません。しかし無知は犯罪であり、両親と私の間にある愛着を見誤った私にも責はあったのです。

幼い頃に他者の感情に気付けなかったことを後悔した私は、以降は観察に回るようになりました。こういう刺激があればこういう感情の反応を返すのが平均的であるということを見抜いては、なるべくそれを再現するように努力してきたのです。

社会人になってから他の大人や子供と触れ合うようになり、その観察眼は私にひとつの結論を与えました。人は人に幻想を抱く。愛のほとんどは過剰評価と相手への希望に過ぎない。思いが通じ合っているだなんて何の根拠があって言えるのでしょうか。それは信じているのではなく、そうであってほしいと願っているだけではないのでしょうか?リーダーに求められる資質とは正しく導くことではなく夢を配ることとはよく言ったものです。そこに責任感も何もないのですから。

結局信用できるのは利害関係だけなのでしょう。私は両親に付いていけば自身に利益がまわってくると見極めたから着いて行ったのであり、そこに誤ちなどありませんでした。

 

ところで、虹の根元には何があるかご存知ですか。

それは金の皿だそうです。一体どこでそんな風に聞いたかは覚えていませんが、多分何かの小説で読んだのでしょう。当たり前ですが作り話です。しかし本当に印象的な描写だったことには間違いありません。

曰く、その金の皿はポンと草原かなんかに置いてあって、それがあの美しい虹を支えているのだそうです。つまり、遠くに見える虹を追って追って、そしていつか足元にたどり着けば、その黄金を得ることができるのだと。けれども、お金欲しさ、そのほか名誉欲しさにそれをわざわざ探し求めることは罪であり、皿のことなど少しも考えていないときに偶然通りがかって見つけた者だけが、それを持ち帰ることを許されるのだというのです。

 

お金欲しさにそれを求めてしまうのは罪なのだと小説では語られていました。

それでは、あのまま両親の元をひっそり離れて緩やかに餓死を受け入れなければならなかったのでしょうか。

 

これは無知な頃の恥ずかしい話です。

今は、いつか私が、手に入れた心をもって、誰かを笑わせてやりたいと感じられるように。そうしたいと思わせる人物が現れてくれることを、虹の向こうへ、切に願っておくことにします。