灰色の空

あした晴天なら

勉強ランナー

どちらかというと勉強が嫌いです。

昔は勉強なんてしても出来ないからやらないんだと鼻の穴を広げて、しかし教科書はランドセルや通学カバンに閉じたままのよくいる困った子どもでした。

それでもそれなりの点数で器用にやり過ごしてきたのは何となく培われてきたもので、自分に生まれ持った特別な何かがあるわけではないのをよくわかっていました。そして、優れた者は頭が良いから勉強が出来るのではなく、勉強しているから頭が良いのだということも本当はちゃんと理解していたのです。

高校に上がってからは何となく勉強しないと取り返しがつかなくなるんだろうと感じる内容なのを悟り、音楽を聴いたり動画を見ながらぼんやりと勉強しました。思い返すに、嫌なことと面と向かって努力してみたことは、これまでで一度も無かったりします。ゆとりだなんだと指を指され、見下ろされても、結局それは努力しても拭えぬ大人から焼印されるレッテルみたいなもので、私の生い立ちに何の影響も無かったことでしょう。ただそういう時代をそういうレッテルを貼られた世代が面倒くさいなと呟きながらも背負っていかなければならないので、それに手を貸す権利すらもないような将来にはしないようにしようと何とかやっと教科書を開きました。こんな感じで私が嫌なことに少しでも寄り添うにはそれらしい理由が必要なようで、それは多分、私が踏ん反り返ってた時代に文句も言わずに努力出来た人たちがいたことを認めていて、それが私に出来なかったのを未だに私は許すことができないままなのでしょう。要するにプライドが高すぎるのも考えものだということです。

すべき事を投げ出して、あの毎日のようにつまらないことに文句を零し連ねていたいのを社会は認めようとはしません。弱い人間だ、惰性だ、言い訳だと牙を向いて私のようにいつまでも後ろを振り返り立ち止まる者を何とか走らせようとします。私がその牙を恐れて走った先には走った私をいいことに、もっと速く走らせようとする母がいる事を予測出来ませんでした。逃げて走れば走るほど、息が上がって苦しいのを、振り返ればまた苦しくなるのを、そしてまた前を向くことがどれだけ苦しいことなのかを私たちはずっと昔からわかったつもりでいるだけで本質は何かと向き合い学ばなければ気づくことが出来ないのです。

私が勉強して知ったのは、このくらいです。